歌声と語音と音楽
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練習のまとめ
A 虚脱したファルセット練習
B 支えのあるファルセット練習
C 声の融合練習
歌声と語音と音楽
「歌唱は言葉を旋律に乗せて歌うこと」・・・歌唱を形成する「歌声」と「語音」と「音楽」は一般的概念としては仲間のように理解されていても、発声器官の運動においては互いに相手を制御して成り立とうとする間柄であることを、フースラーは再認識させてくれます。


フースラーは、人間の発声器官が本来は語音(言葉の発音)の為のものではなかったことを解剖生理学的に解明しています。
言葉を話す時、人間の発声器官に備わっている機構の一部しか使われない(とりわけ声帯にある音高コントロールの精巧なしくみは語音にはむしろ邪魔である)という事実からだけでも、人類は、進化を完了した発声器官を利用して語音を開発したと推定し得るでしょう。
それを裏付ける事例の一つとして、フースラーは次のことを挙げています。
『この特殊な進化の過程は、数ある中で、なお赤児にみることができる。初めに無意識に、赤ん坊は旋律的な感情的なひびきを口に出す。知性が目覚めるととともに、ゆっくりとだが骨を折って、話すことのために彼らの声を作り直すことを習わなければならない。』



長い原始の時代が過ぎて、人類の知的能力が発達してくると、人類は自分たちの発声器官を使って語音を発しはじめます。
口や共鳴腔の形を変えることによって母音【a】【e】【i】【o】【u】の音色が生じますが、伝達する為の音声としてはそれだけでは不十分で、もっと多くの種類の語音が必要でした。そのためには舌や唇なども多用することで各民族はそれぞれの語音を作り上げました。
語音を語音として明確に発するには、発声器官に備わっている機構の多くを使わぬようにしなければなりません。備わっている全機構をバランス良く働かせると歌声になってしまうからです。
人類が完璧に語音を操るには、(無意識の内に)ある程度歌声を犠牲にしなければならなかったわけですが、語音によって人類が獲得した実利の大きさを思えば、必然的成り行きと言わねばならないでしょう。


音高をコントロールできる声帯の機構に関するフースラーの記述は(まだ謎の部分が残されるという理由からでしょうか)少量ですが、非常に価値ある発見であったと思います。
特に、声帯の縁が調和的に配列された部分に分けられている・・・という事実は、認知能力の未だ低かった原始的な人類が、どういう訳か調和的な歌声を発していたことを示唆しています。
進化のはじめ、声帯は単純な随意筋でしかなかったはずです。
人類は何かの偶然から音の自然原理を直感的に知ったのでしょうが、本能的にオクターブや5度などの高低をいろいろ歌う内に、交錯筋がそのように発達して行ったと考えるほかありません。


古代における音楽の始まりは2〜3種類の音の並びだったといわれます。音楽史学では、おそらく長音程の単純な旋律であったろうとされます。旋律が先に生まれたのか、それとも言葉が先に生まれたのかについては、音楽史学においても不明のままですが、はじめは呪術的な行為であったろうとされています。
この時期は言語も音楽も発展初期であり、歌声と語音と音楽はまだ一体に近い時期であったといえるでしょう。
その後、各民族に5音階や7音階など多くの種類の音階が派生して、各民族は単純な楽器も創作しつつ、それぞれに旋律音楽を確立させて行くことになります。やがて、楽器類の著しい発達に伴って、各民族に知的な音楽文化が誕生します。また音楽の発展とほぼ平行して、詩や文学などの知的言語文化も開花しました。
このあたりから、言語と音楽は個別に独立した芸術分野を構築して行くことになります。


言語と音楽の文化的発展の過程において、原始の歌声と語音と音楽とは互いに本質を異にする存在になって行かざるを得なかったわけですが、そのような状況下においても、歌唱行為は延々と続いてきました。音楽界においては歌唱は常に花形でしたし、民間においても仕事歌や里歌などは人々に親しまれ歌い継がれてきました。
フースラーによれば、歌唱において人間の発声器官は歌声と語音と音楽の狭間で悩まされつづけてきたのですが、おそらくいずれの民族にあっても、自分たちの発声器官の中にそのような状況が起こっているなど夢にも思わなかったでしょう。歌唱における意識としては歌声と語音と音楽はいつも一体だったのです。
ただ、歴代の優れた歌手たちは、歌いながら言葉を発することがいかに難しい行為であるかを身を以て知らされてきたに違いありません。自分の中に理由なく存在する歌声への本能を優先すべきか、歌詞である語音を優先すべきか、あるいは音楽としての美を優先すべきか・・・歌手はいつもその妥協点を探しつつ歌ってきたに違いなく、またその宿命は今後も変わらないでしょう。


ところで、歌声の本能と音楽の才能とは別ものと考えねばなりません。歌声を発する能力は万人が生まれながら等しく持っているものですが、音楽を奏でる才能は同じではありません。
音楽は人間が創造した文化ですから、それを歌うには音楽的技術が必要になります。発声器官が良好なら音楽の技能も高いとは限りません。俳優や声優、アナウンサーやナレーターなどの才能に恵まれた人もいるわけです。
どんな分野であろうと、声を使うパフォーマンスにおいて一番重要なことは、声に心が乗るということでしょう。感情を表す声・・・といえば、それは原始の歌声しかありません。なぜなら、人間の感情と直結する音声が原始の歌声だからです。そして、その声を発するためには発声器官を健康に保てよう努力するしかない・・・ということになるでしょう。


フースラーが提唱する発声器官のリハビリが、即歌唱の上達に繋がるわけではないということを理解しておく必要はあると思います。
 
参考・引用文献
うたうこと フレデリック・フースラー 著
音楽史 ボオル・ランドルミイ 著