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吟詠と音楽

吟詠の音楽的魅力

 
 明治以降の日本の音楽環境
現代の日本人大半の音感(音を聴く感覚)は洋楽的になっているといえるでしょう。
明治開国によってもたらされた西洋音楽及び後に渡来したアメリカ音楽が日本民族の音楽環境を一変させたのですが、日本民族の特質とでもいうべき感性はそれら洋楽を国風化して新しい日本音楽を作り上げました。
古代中国から伝わった音楽を国風化して日本雅楽を作り、更には武士の能楽、庶民の各種邦楽を編み出してきた才能が、近代においても発揮されたわけです。

江戸時代以前の日本伝統音楽は楽器・音律・音階・音の使い方すべてにおいて西洋音楽とはかなり異なる音楽でした。更には分野毎にも少しずつ異なっていて、洋楽のように一つの音楽文化として統一されないまま明治維新を迎えました。
対して西洋音楽は統一性があり、かつ理解しやすいよう合理化された音楽でした。明治政府が西洋音楽を教育科目に指定したことによって急速に普及したことは周知されるところですが、学校教育だけによることではなく、日本人の音楽の好みが西洋音楽に傾いて行ったことが定着の要因といえるでしょう。

この時、日本の各伝統音楽分野が選ぶ道は二つありました。伝統文化として厳格に残して行く道と、洋楽の要素を取り入れて時代に対応できる音楽に変化させて行く道です。後者の道を選んだ代表としては宮城道雄氏らによる新邦楽を挙げることができます。日本民族にとってはどちらも価値ある道で、客観的には比較することはできません。
吟詠の音楽的特性
吟詠は幕末期に誕生し、激変する音楽環境下で成長してきた分野です。したがって、旧来の伝統音楽とは事情が異なるといえます。
吟詠は近世邦楽の環境で誕生しましたが、育って来たのは洋楽主流の環境であるということです。
したがって必然的に吟詠家の音楽感覚には邦楽的感覚と洋楽的感覚が混在してきたはずです。このことは過去の吟詠家による諸々の書籍からも十分窺い知ることができます。
 吟詠の音階の特徴(魅力)
吟詠の基本的な音階は都節音階と呼ばれる陰音階です。この音階は吟詠独自の音階ではなく日本の伝統的音階の一つです。
吟詠八本で表すとミファラシドになり、主音はミです。主音の下のレも使用されることが多いのですが、基本的には五音階です。
「さくらさくら」はこの音階の古歌で現代日本人にも親しみのある曲です。「さくらさくら」を吟詠八本の高さで演奏すると「レーミーファー・シラファーミー」とミで終わり、吟詠八本と同じ音階であることが分かります。

瀧廉太郎氏の「荒城の月」の旋律を吟詠八本用にすると「ミーミーラーシードーシーラー、ファーファーミーレーミー」と一見「さくらさくら」と同じ音階のようですが、主音はミではなくラです。「荒城の月」のメロディーは洋楽の短音階を用いて日本五音階的な雰囲気を奏でているわけです。伴奏も洋楽の和音が使われています。
洋楽7音階の第4と第7の音を使わないことで洋楽でありながら日本的な雰囲気を出す手法は「よな抜き」と呼ばれ、後に日本の流行音楽でも多用されるようになりました。この手法が浸透したことによって、多くの日本人の音感はミファラシドの五音階を聴くと主音はミではなくラと感じるようになっています。
現代日本人の平均的な音感では「さくらさくら」の終わりは曲がまだ続くように感じるでしょう。
吟詠の終わり方も同じ印象を与えると思います。

だからといって吟詠八本の主音をラに変え、ラで終わるのを基本にすると、吟詠の旋律の伝統的な響きは失われてしまいます。
都節音階「ミファラシド(レ)ミ」と洋楽短音階「ラシドレミファソラ」を聴き比べると異なる響きを持つことが分かります。都節音階は洋楽短音階よりやや明るい響きがします。明るさと愁いが同居するこの音階は目出度い詩も悲惨な詩も表現し得る音階なのです。
 拍節的リズムと自由リズム
音楽には手拍子の打てる音楽と打てない音楽があります。
手拍子の打てる音楽は「拍節的リズム」の音楽と呼ばれます。拍節的リズムというのは、「1・2/1・2/・・・」のように一定の秩序を保って進行する拍子リズムのことです。拍節的リズムの音楽は皆が同じリズムに乗って歌ったり合奏できるという長所があります。西洋音楽は拍節的リズムを基に音長の単位を合理化し五線譜を完成させたことによって世界に広まったと言えます。

対して、手拍子の打てない音楽は「自由リズム」の音楽と呼ばれ、音・空白(休み)の長さは感覚的で合理的な秩序を持ちません。日本の自由リズムの音楽には、吟詠以外にも民謡の追分や尺八の古曲、能楽や義太夫の一部分、浪曲の歌の部分などありますが、拍節的リズムの音楽と比べて極めて少ないのは、自由リズム音楽はどうしても共有性に欠けるという弱点があるからでしょう。
 吟詠の節回しとリズムの特徴(魅力)
吟詠の節回しと節回しの自由リズムは、各流派毎に自然と固まってきたと考えられます。
吟詠の節回しの特徴は母音で長い節を回すことです。追分節など各地に残る自由リズムの唄に似ていますが、吟詠は基本的に詩の言葉を一音一音伸ばすのではなく単語は詰めて発音し、語尾の母音で長いフレーズを作るところに特徴があります。

たとえば「少年易老」は「しょーおーねーんー・おーいーやーすーくーー」ではなく、「しょおねんー・おいやすくーー」と吟じられます。
おそらく漢詩の形式を吟詠に反映させようとしたことによると思われます。
このことによって吟詠はきりっとした独特の印象を醸し出すものになっています。

節回しの自由リズムには更に「こぶし」など複数の装飾が入る為、リズムは非常に複雑なものとなります。

江戸邦楽の多くは拍子を持つ音楽です。にもかかわらず、吟詠がその発展過程で拍節的リズムになって行かなかったことは、ある意味幸いであったと思うのです。
吟詠の自由リズムは結果的に独特なものとなり、吟詠で舞う剣舞のリズムをも生み出したといえるのです。
吟詠また剣舞・詩舞特有のリズム感は、拍子音楽からは生まれ得えず、自由リズムからでも漢詩を吟じたからこそ生じたものといえるでしょう。
 吟詠の節回しとリズムは真似ることで習得する
吟詠の節回しは流派毎に決められているのですが、節を回すリズムは吟者の感覚に委ねられます。こぶしなどの装飾の入れ方も同じです。
では吟詠はそれぞれ自分勝手なリズムで吟じているのかといえば、そうではありません。
各流派毎に節回しと同時にそのリズムもおよそ決められています。ただし、感覚的な決め事で、合理的に教えたり習ったりすることはできません。弟子は師の吟詠を真似ることで節回しとリズムを一体のものとして感覚的に習得しなければなりません。
 良い吟は「良い間(ま)」で吟じられる
自由リズムに関する表現に、日本には「間(ま)」という言葉があります。
たとえば漢詩・富士山を「せんかくーゥーゥー」という風に吟じるとします。そこには「● ● ● ●―●ー●ー 」のように最低6つの発音リズムが生じます。各発音リズムの間が「間(ま)」です。
「間(ま)」は単に音と音の間の時間(音の長さ)ではありません。各音の発し方、次の音への移り方などによって「間(ま)」は長さだけでなく様々な印象を生じさせます。総合的に心を揺るがす印象が残ると「いい間を持った吟詠」に聴こえるわけです。

洋楽においても「間(ま)」の表現は楽譜に表せない重要な要素であり、「間(ま)」の感性は教え難い才能とされます。拍節的リズム音楽でも自由リズム音楽でも「間(ま)」が音楽の表現を左右するという認識は同じといえます。

優れた吟詠家は皆、絶妙な「間(ま)」で吟じるのですが、本人は感性で習得し出来ていることなので、弟子に言葉で説明しようとしても上手く伝わらないことが多いと思います。今も昔も、弟子は師を真似ることで「間」を悟っていくしかないわけです。
 間(ま)は特別なものではない
「間が悪い」「間がいい」などは日常生活にもしばしば出てくる言葉で、「間」という感覚は特殊なものではありません。
たとえば、喜劇の笑える場面で、芝居の「間}が少し変わっただけで観客の笑いが起きなくなってしまう・・・ということがしばしばあります。「芝居の間が悪かった」せいなのですが、その「悪さ」を多くの観客が同じように悪く感じたことによるのです。「間」の感覚は芸能に限らず武術・スポーツなどにおいても、日本人だけではなく人類共通に持っている感覚のように思われるのです。
自由リズムの音楽は、どの分野であろうと拍節的リズムの音楽ほど人々に親しまれないのは仕方のないことでしょう。しかし、自由リズム音楽の面白さをもっとアピールできればもう少し興味を持ってもらえるようになるのではないかと思うのです。