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吟剣詩舞の舞台

吟剣詩舞とシンセサイザー


私の音楽はほとんどシンセサイザーの音です。なぜシンセサイザーなのか・・・ということですが、当初からシンセサイザーにこだわっていたわけではありません。シンセサイザーといえば映画などの効果として流れる得体の知れない音を出す機器くらいに思っていたのですが、私が吟剣詩舞の音楽について関心を抱き始めた頃、丁度シンセサイザーが音楽の実用楽器として開発されつつあり、面白そうなので試しに使ってみたことがきっかけでした。その後シンセサイザーが急速に発展して行くのに刺激され機材を増やす内に、音楽のすべてをシンセサイザーで作るようになっていた・・・というのが成り行きです。

 
   シンセサイザーとの出会い  
  日本でシンセサイザーが注目されはじめたのは1970年代に冨田勲氏のシンセサイザーによるレコードがアメリカで有名になり、日本に逆輸入されたことによります。当時日本のレコード業界はシンセサイザー音楽を評価せず、冨田氏の作品はアメリカで発売されたのです。それ以来、ヤマハ、ローランド、コルグなど各メーカーがこぞってシンセサイザイーの開発に本腰を入れ始めたように思います。
初期のアナログ・シンセサイザーはオシレーターの「ブー」というような音を加工して様々な音色を作る仕組みで、単音しか出せませんでした。冨田氏のシンセサイザー音楽に興味は持ちましたが、かなりなの資金が要るようでしたので、雑誌の記事やカタログを見ている程度で留まっていました。

私が剣舞を習っていた神武館道場(初代家元青柳芳枝先生)は毎年神戸文化大ホールで発表会を行っていました。常に開場前から入りきれないほどの観客が長蛇の列を作りました。観客には吟剣詩舞に関係する人々はもちろんですが、一般のファンも多かったようです。それは家元が毎年趣向を凝らして構成番組を企画していたことによると思います。今でこそ吟剣詩舞の構成番組は普通になっていますが、当時はそういう舞台を実施する流派はほとんどありませんでした。
発表会には私も出演させていただいておりましたが、構成される番組の音楽的要素として尺八・筝だけの音では物足りない気がしていました。何か新しい音を加えて音楽的に演出できれば・・・と密かに思っていたのですが、私は洋楽しか学んでおらず、その考えを具体的に発展させることはできずに居ました。後に二代目家元となる青柳芳寿朗先生は音楽に関しても優れた感性を持っておられ、洋楽も奏で得る凰笛と呼ぶ横笛を考案・作製・演奏されて吟詠の伴奏に使用しておられました。芳寿朗先生も吟剣詩舞の舞台音楽に関して同じ様な考えでおられたことから、私の思案実現の後押しをしてくださることになったのです。
 
  私がはじめて使ったシンセサイザイーは、2音同時に出せるヤマハのCS15Dという機種でした。

2音同時に鳴るというのは、たとえはドとミの音を和音として鳴らせるということです。またこの機種の長所は自分で作った音色をいくつか記憶しワンタッチで呼び出すことができる点でした。多重録音用のマルチレコーダー、ミキサー、フェフェクターなどの機材は既に持っていましたので、このシンセサイザーなら自分が漠然と思い描いている吟剣詩舞の音楽に活用できそうに思えたのです。ところが、いざ使ってみようとすると訳が分からず、止む無くヤマハから説明に来てもらったのを覚えています。
使い方が分かると、いろいろな楽器の音色を作ってみることに夢中になりました。各々の楽器の音色の秘密を捉えようと耳を澄ます癖も付きました。
 
  シンセサイザーを使って吟詠剣舞詩舞の音楽を作ることは珍しいことだったので、音楽雑誌に紹介されたこともありました。

 
 
  当時は手で演奏して直接テープレコーダーに録音して行くという方法でした。
マルチトラックレコーダーは、録音テープの幅を複数のトラックに分けて、たとえば1トラックにはフルート、2トラックにはバイオリン・・・という風に別々に録音できます。
すべてのパートの録音が終わると、ミキサーでまとめてステレオレコーダーに録音して仕上げるという作業です。最初に使っていたマルチレコーダーは4トラックでした。
ピンポン録音をといって、たとえば1〜3トラックにそれぞれ録音した後に、それらを空いている4トラックにまとめてコピーすることで、再び1〜3トラックが録音に使えます。この作業を繰り返すと多くの楽器の多重録音が可能になるのですが、ピンポン録音する度に音質は劣化し雑音も増してしまいます。最終的にもっとも劣化が少なくて済む録音の計画を立てることが重要でした。今思えば気の遠くなるような作業でしたが、当時の苦心や工夫が現在何かしらの役に立っているようには思えます。
 
   BGM国難    
     CS15D一台を使い、4トラック・レコーダーで多重録音したBGMです。
粗末な音質ですが、[ブー」という音からいろいろな音色を作り、一人で音楽を制作できる満足感は得ました。
 
  4トラックでは多重録音にも限界があります。16トラックや32トラックのレコダーは高価で手が出ませんので、8トラックレコーダーで我慢することにしました。8トラックマルチレコーダーで使う録音テープは通常のテープ2倍の幅があります。少しでも音質を上げるためにテープの回転を最速にして使うのでテープ代はかなり要りましたが、シンセサイザーで音楽を作る上では必要不可欠な条件の一つでした。  
    
8トラック・マルチレコーダー
 
ステレオ・オープンレコーダー
   
  デジタル・シンセサイザーの登場  
  アナログ・シンセの限界を一気に解消してくれるようなことが起こったのがシンセサイザーのデジタル化と、演奏データを機器間でやりとりできるMIDIという共通規格の実現でした。アナログとは異なる方式で音色を作り、音は数段良くなりました。デジタル・ピアノをはじめ複数の音を同時に鳴らせるポリフォニック・シンセサイザーが各社から発売されるようになりました。
1983年にヤマハが売り出したDX7は実に魅力的なシンセでした。プリセット音源(いろいろな楽器の音がすでに用意されている)ですが、自分で音色も作れる機能があり、アナログ・シンセでは適わなかった和楽器(らしき)の音も作れるようになりました。
 
     
 
This Land is Your Land カラオケ(1986年バンクーバー国際博に神戸民俗芸能団が参加した際にカーテンコールで開場の観客と歌った曲 
DX7一台を使い、8トラック・レコーダーで多重録音した曲です。DX7独特のFM音源の音です。

 
 
寿 (吟詠及び凰笛:原瑞鳳)
DX7で琴と笙の音を作ってみました。横笛(凰笛)は生演奏です。
DX7では鼓の音にも挑戦しました。今となっては琴も鼓の音も使い物になりませんが・・・
 
     
  シーケンサー   
  シンセサイザーを手弾きでマルチレコーダーに録音して行くのはなかなか大変です。一つ一つのパートは良くても全体を聴いてみて調和が悪かったなら、悪いパートをやり直さねばなりません。やり直すと今度は別のパートが気になったりします。
シンセサイザーがデジタル化されMIDIが誕生したことで、演奏情報をMIDIとして記録・編集・再生が出来るシーケンサーと呼ばれるコントローラーが各メーカーで開発されました。MIDI情報の記録とは音の録音ではなく、シンセサイザーをどのように演奏するか(どのキーをどのくらいの強さ・長さで押さえるか・・・)などの演奏情報をデジタル・データで記録することです。記録したMIDIデータをシンセサイザーに送ると自動的に演奏が再現されます。
 
    デジタル化の中でも、とりわけMIDIの統一はシンセを扱う者にとっては是非とも欲しかったものでしたが、初期のものはいかにもコントローラーというような機器でした。
 
    私が最初に使ったシーケンサーはローランドのMC500でした。MC500は持ち運びには便利でしたが、パソコンのように大きなディスプレイがないので操作は不便でした。記録したMIDI情報は曲名を付けてフロッピーディスクに保存しておきます。

 
     
  作曲の依頼がある毎に、その作曲料を見込んで先に新しいシンセサイザーを購入し、少しでも良い音で曲を納められるようにすることを心がけている内に、部屋は機材に占領される状態になってしまいました。  
   
ローランドS−50 コルグT3  コルグ Trinity 
コルグM−1 エンソニックSQ2 アカイ S1000
ローランドS−550 E−MU MPS アカイCD3000XL
アカイS−900 E-Mu Ultra Proteus ローランドJV-2080
カーツェル1000SX E-Mu Pro/procssion ローランドXV-5080 
アカイS1000HD E-Mu Proteus2000 アカイ S-6000
ローランドA-90EX E−MU MPS ローランド SC-88
E-MU E-5000 ヤマハVL−7  等々・・・
コルグ DSS コルグ DSM  
 
     
  サンプラーとシーケンサーの発展  
  ヤマハ、ローランド、コルグなどが次々と新しいデジタル・シンセを開発する中、サンプラーが登場しました。生の楽器の音を音源にするシンセサイザーですからほとんど生楽器に近い音が出せます。特に和楽器類に関してはローランド、コルグ、アカイなどのサンプラーに随分助けてもらいました。  
  Twenty Fou
 
 
  ATARIという会社は家庭用ゲーム機が専門だったようですが、そのコンピューター1040STで使えるTwenty Fourというシーケンス・ソフトがスタインバーグ社から発売されました。ちなみにTwenty Fourは現在のCubaseというシーケンス・ソフトの前身です。
ディスプレイを見ながら操作できるので飛躍的に仕事の効率があがりました。
24トラック使えるのですが、シンセ側のMIDIの対応は16チャンネルしかないので、実質的には16台のシンセサイザーを同時演奏させることができます。
吟詠伴奏曲集「DRY」はTwenty Fourで作りました。
 
  Notator
 
 
  しばらくして、C-LAB社からNotatorというATARI1040ST対応のシーケンス・ソフトが発売されました。Twenty FourはMIDI-OUTが16でしたが、NotatorではMIDI-OUTが3系統になり、MIDIで同時演奏できるシンセサイザーが一挙に48台まで可能になりました。
吟詠伴奏曲集「吟響」はNotatoで作りました。
 
  ATARI 1040ST
 
 
  シーケンス・ソフトはMIDIに関してはどのメーカーのものも共通なのですが、ソフトのプラグラミングは各社異るので、あるソフトで作曲したデータをそのまま他のソフトで使うことはできません。
Twenty Fourで作った曲のMIDI信号をNotatorに移してからNotato上で再編集しなければなりません。

Twenty FourやNotatoに不便や不足を感じる点はありましたが、作曲作業の強い味方になってくれたことは確かです。
 
  一挙に鳴らせるシンセサイザーの台数が増えると、それらの音をまとめるミキサーも大型のものが必要になってきます。震災まで、Soundcraft社のコンソールをレンタルで使っていました。  
     
  1955年の大震災でこれまで使ってきた多くの機材が破壊されましたが、幸い作曲してきたデータは無事でした。  
     
  復旧する際、Notatorが近々生産中止という情報が入ったので、パソコンで使えるVissionというソフトに替えることにしました。コンピューターはMacに、ミキサーはデジタルのものに替えました。使用する機器すべてがデジタルで連結できたので音の劣化に悩ませられることがなくなりました。
吟詠伴奏集「燦燦」はVissionで作りました。
 
     
  各メーカーのシーケンス・ソフトが年々進化してくれるのは有り難いことです。ただ、ソフトを入れ替える度に分厚いマニュアルを勉強し、使いこなす練習が必要になります。作曲の仕事が続いている中で、入れ替えるタイミングを計らねばなりません。その点に関しては仕事場の音響設備をお願しているリードマンという会社がいつも便宜を図ってくれるので助かります。  
    一般的に各社のシーケンス・ソフトはどんどんグレードアップして行くのですが、中には開発中止となる商品もでてきます。Vissionもそういうソフトの一つでした。  
  現在はCubaseというソフトに替え、パソコンはWindowsにしています。 Cubaseで使えるソフト・シンセサイザーも世界各社からインターネットで買えるようになりました
吟詠伴奏集「皓皓」はCubaseで作りました。
 
     
  初期のシンセサイザーはキーボード形式の楽器でした。MIDIで統一されるようになると、鍵盤を持たないラック式の音源機材が登場し、今はソフト音源といってコンピューターの中にシンセサイザーをインストールするものになっています。ちょうどコンピューターゲームのソフトようなもので、パソコンがあれば音楽が作れるようになりました。といってもソフト音源が完璧というわけではなく、往年のシンセサイザー類にも気に入っている音はたくさん在るので併用しています。

ソフト・シンセサイザーもシーケンス・ソフトも今後益々進化して行きそうです。それらが改良されることは自分の楽団の音が良くなるということです。そうなると過去に作った曲を新しい楽団で再演奏させ、リメイクしたいという欲が湧いてしまいます。
たとえば、吟剣詩舞の舞台で以前使用した伴奏を再使用する場合でも、手に入れた最新の音源で手直ししてしまいます。創作する者の性というしかありません。