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レポート

公演に向けて Preparation for the concert

 
  スメタナホールは、1911年に建設された市民会館の2階にあり、「プラハの春」音楽祭のメイン会場にもなる、世界的に有名なホールです。ただ、このホールはコンサート専用のホールですから、緞帳もホリゾントもなく、演劇的な空間を要する吟剣詩舞にとっては使い難いホールではあります。しかしながら、チェコの歴史を背負うホールで日本の芸能を披露することは非常に意義深いことだと思います。  
  今回私は音楽の提供と共に、音響係を担当しました。
事前に数名の先生方が現地を視察され、ホールと打合せをして来られましたので、およその様子は掴めるのですが、私の海外公演の経験では、実際にホールで仕込みをする段階になってみないと判断の仕様のないことがたくさんあり、行く前からあまり厳密な音響プランを立てても結局は変更せざるを得ないことが多々あるので、準備としては必要最低限の心積もりに留めました。
出発も間近になった頃、演出担当の海老澤先生から「ホールの音響機材の操作はできますか?」との電話がありました。「ホールには音響スタッフは居ないのですか?」と問い返すと、「居るとは思うのですが・・・」というあやふやな答え・・・。先生にも現場に何人のスタッフが付いてくれるのか確信がなかったようです。
日本の大ホールなら、通常音響スタッフは最低2〜3名は付きますが、海外においては予想外のことがあるので、海老澤先生もご自分の体験から、万が一のケースを考えてのご質問だったのでしょう。
果たしてその予測は、遠からず現実のもとなって、現場で私を慌てさせることになるのですが・・・ 
 
出演の依頼
We requested them to join us
  吟剣詩舞日本団がスメタナホールでチャリティー公演をすることを彼に告げ、可能ならばジョイントしてもらえないかと連絡したところ、喜んで参加しますとの返事をくれました。
ジョイントの企画を申し出たのは私なので、彼等との相談は私が窓口となって進めなければなりません。もちろん私はチェコ語はさっぱりですし、英語も得意なわけではありませんので、シビアな内容に関しては誤解の生じぬよう、辞書を頼りに、くどいほど念を押しながら打ち合わせを続けました。
こういう場合、メールは非常に便利なのですが、一つの事柄について相談して結論を出すのにも、彼等と、日本チームの代表、演出家、そしてツアー会社の4者間の橋渡しをしながらの作業になるので、すべての事柄について了解し合うのに約1カ月かかってしまいました。

彼等はチェコの南部に住んでいて、プラハまでバスで3時間ほどかけて来てくれることになりました。ただし、彼等はそれぞれ職を持っているので、当日に来て公演終了後夜行で帰らねばならないというハードなスケジュールになりました。ちなみにマレックさんは大学の先生で、翌日午前の授業があるとのことです。
今回のメンバーはバンド9人・ダンサー23人、バス1台・自家用車1台で来てくれるのですが、ホールには駐車場がないようなので、我々の宿泊ホテルに頼むことにしました。
日本側のプログラムは「日本の歴史」と「日本の美」の二部構成です。彼等にはそれぞれの頭に15分づつ、パート1・パート2のステージをお願いすることになりました。日本側のリハーサルは午後2時〜5時の予定なので、彼等は午後5時からのリハーサル、マイクロフォンは9本使用・・・と決定しました。

余談ですが
しばしば「外国人はルーズで約束を守ってくれないのでえらい目をみる」というような話を聞きます。
誤解のないよう言い添えておかねばなりませんが、私の友人たちに関してはこういうことは断じてありません。
あくまで他から聞こえてくる話としてですが・・・。日本人が几帳面過ぎる、融通性がなさ過ぎると言う人もいます。もしそうだとすれば、外国人が持つ柔軟性をルーズと感じるのかも知れません。
しかし客観的には、言語の壁、習慣の違いなどから、お互いの認識が食い違っていただけ・・・ということも多々あるように思います。そこでもう一度コミュニケーションを深めれば、ああそういうことだったのかと納得できるのでしょうが、その努力をする前に感情が結論を出してしまうことが多いのではないでしょうか。
考えて見れば、日本人同士でもそのようなことは日常茶飯あって、コミュミケーションの行き違いが原因で気分を害したり非難し合ったりしています。
日本人は議論し合うことが苦手な民族といわれます。その代わり、かつての日本人は「心中を察する能力」に長けていたように思います。「察する」というのは、思い込むのではなく柔軟的に理解することだと私は解釈していますが、その能力でコミュニケーションが成り立ってきたのです。
議論も同じことで、柔軟に理解し合いならが意見を交わすのが議論ですから、結局は上手なコミュニケーションの要は人類共通だといえそうです。
現代の日本人は、議論のしかたは苦手なままで、かつ「察する能力」も低下している・・・そういう民族になりつつあるのではと、気になるニュースが最近多いです。